2024.12.27
地域支援機関とともに生産性向上に取り組む企業事例
ポイント
株式会社吉野機械製作所は、1948(昭和23)年に東京都江戸川区小松川の地にて、現代表の祖父にあたる吉野通利氏が鉄道汽車の窓枠の取っ手をヤスリ一本で真鍮から削り出して納品したところからはじまる。創業から5年後の1953(昭和28)年には、汎用プレス機械の製造に着手。高度成長期の景気に後押しされ、大型プレス機の製造を手がけ、当時はプレス機器製造大手の一角を担っていた。
1987(昭和62)年には、千葉県船橋市に事業所を移転し、その後、創業者から二代目の経営者(現会長)へと経営が引き継がれた。二代目経営者の時代に、業界他社から複数の技術者を受け入れる機会があり、これを契機として、自社で製品を設計し製造を行う能力を保有するきっかけになった。これにより、顧客工場向けの専用ラインを受注生産するオーダーメイド型事業に加え、汎用性のあるカタログ製品の開発と販売を手がける会社に変わっていった。
事業の拡大に合わせて、設計者を中心とした「現場の力が強い」組織基盤が形成され、事業展開の基礎が築かれた。
現在の代表である吉野友章氏は、20代前半に当社に入社後、わずか3年間で退職している。その後、約7年間にわたり別業界での経営経験を積み、30歳のときに吉野機械製作所に再入社した経緯を持つ。再入社当時、千葉県船橋市の事業所が手狭となっており、現在の所在地である千葉県千葉市緑区の工業団地への移転を検討していた時期であった。この事業所移転には多額の借入金が必要であり、将来に向けて事業を拡大していく構想や会社を変革していく次の経営者の変革力を必要としていた。
「ものづくりの事業会社で、目的に向けて物事を考え、自分で業務のあり方を創る・変えるという仕事に、自分の力をぶつけていきたいという想いが日増しに強くなっていました」と吉野社長は語る。
再入社後、吉野社長は、設計と製造の現場に入った。将来に向けて経営の舵を取るため、熟練技術者が行う仕事を自ら理解し、そのノウハウを吸収するべくがむしゃらに働いた。その日々は昼夜を問わず、休暇もほとんど取得せずに働いていたという。
現場で働く中で、熟練技術者が重要な業務を属人化し、非効率でも仕事のやり方を改善しないこと、若手社員が仕事のノウハウ吸収する機会に恵まれず、活躍の機会を得にくい環境の中で辞めやすい状態になっていたことに気づいた。
さらに、設計工程では納期遅延が日常化しており、この問題は設計段階の効率化と情報共有の改善が必要であることを示していた。
当時、専務取締役 生産本部長であった吉野社長は、若年層の早期離職と納期遅れの課題を克服するため、いくつかの改革を実施した。
まずは、設計段階で3次元のCADを導入することにした。従来の2次元CADによる設計図面は、職人の経験に依存して読み取る必要がある設計情報が多く、製品の組み立てにおいて非効率が生じていた。3次元CADを導入することで、設計図に詳細な情報を直接反映できるようにし、組み立てが容易になるだけでなく、長年の課題であった納期遅延の改善にもつながると考えたのである。
改革を推進するため、まずは吉野社長自身が3次元CADを学び、自分で使えるようになった。その後、2次元CADによる設計を廃止し、3次元CADを用いた設計図作成を現場に浸透させた。設計担当者からの反発もあったが、長年の課題を変えるチャンスとして捉え、トップダウンで推し進めた。
次に、熟練職人の稼働時間の効率化を図るため、人事制度を見直し、一部のご高齢の社員に対して固定給から時間給への変更を実施した。この変更により、これまでの給与体系では、過剰な負担となっていた給与の一部を若手人材の報酬に振り分ける仕組みを構築した。この改革は、一部のベテラン職人が離職する結果となったが、若手人材がいきいきと働ける環境を整える事ができ、離職率の改善につながったという。
「ベテラン職員に遠慮や萎縮しながら仕事をしていた若手が、のびのびと主役として活躍し、成長していく風土が生まれました」と吉野社長は語る。
この一連の改革は、若手人材の定着率が向上し、会社全体の活力を引き上げる大きなきっかけとなったのである。
吉野社長が推し進めた生産現場の改革により、会社の業績も大きく変化した。それまで長年、経営収支が均衡する状況が続いていた業績が、改革の成果として1年間の決算で何億もの利益が計上できるようになった。
この業績向上を受け、会社の顧問を担っていた税理士から、会長から吉野社長への事業承継を進める提言がなされた。この提言では、計上した利益を会長への退職金の原資とし、金融機関との交渉の窓口も含めた全ての経営者としての役割を吉野社長に移行したらどうかという内容であった。
そして2023(令和5)年1月28日、株式会社吉野機械製作所の経営権が、会長から吉野友章社長に正式に引き継がれた。
「社長に就任してからは、会社が掲げたビジョンに向けて、経営者と従業員が一丸となって前に進むために、会社の情報を定期的に全従業員に発信しています」と吉野社長は語る。
「これから先の時代、日本の市場が頭打ちになることは、明白であり、国内市場で生き残るためには従来とは異なる付加価値を提供する必要があると考えている。一方で、海外市場に目を向ければ市場規模は大きく、自社の成長にとって海外進出が不可欠である」
吉野社長は、事業承継を機に、海外への事業展開を課題として設定した。前職でロボット製作に従事していた経験者などを集め、社内にロボティクス事業部を立ち上げた。世界初をうたえるような新製品の開発にも着手するようになったという。
これにより、同社は国内外での競争力を強化し、次世代の成長を目指す体制を整えつつある。
2023(令和5)年の夏頃より、株式会社吉野機械製作所は公益財団法人千葉市産業振興財団からの支援を受けるようになった。海外進出の計画を策定および計画実現を支援する「海外事業展開支援事業」の一環として支援が行われた。
「ご支援先には、どの企業にも平等に各種の支援制度や補助金のご案内をしています」と、千葉市産業振興財団の長島氏は語る。
同氏によれば、事業者に対する支援は単独の支援機関だけでは限界があり、さまざまな支援機関が連携して事業者を支援することが重要であるという。
今回採択を受けた「事業承継・引継ぎ補助金」の計画策定および申請にあたっては、吉野機械製作所の経営戦略室 窪園課長が吉野社長の意向を受けて策定した。このプロセスは、千葉市産業振興財団の長島氏からの支援を受けながら進めた。
経営を刷新して、事業拡大を進める吉野機械製作所であるが、創業以来の精神を大切にしているという。
昭和29年の新聞紙面には、「価格は高いが高性能・高品質で他社の追随を許さない」というフレーズで吉野機械製作所が紹介されている。
「創業以来からの妥協しないものづくり、ものづくりに対する情熱は大切にしています」
将来的には売上100億円の達成を目指しており、直近3年間で売上30億円の達成を目指す吉野機械製作所の次なる課題は、事業を支える人材の確保と育成であるという。
「県内の大学に、自ら積極的に足を運び、自分たちが目指すものづくりのビジョンをしっかり発信していきたいと思います。入社した社員には、事業の成果をしっかり還元し、社員が頑張りたいと思えるような処遇やコミュニケーションを実践していきます」
また、評価制度の導入や管理職の育成といった内部体制の確立にも注力している。吉野機械製作所が、売上100億円達成企業として紹介される日を心待ちにしたい。
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